コリント第二3章

3:1 私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたに宛てた推薦状とか、あなたがたからの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

 パウロは、自分たちの働きは、神が承認しておられることを前の章に記しました。それを受けて、また自分自身を推薦しようとしているのでしょうかと問いました。それは、前の手紙で同じようなことを記したからです。

コリント第一

9:1 私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。

9:2 たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。

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 しかし、パウロは、自分自身を推薦しているのではありませんでした。自分自身を推薦しても、意味がありません。何の保証にもならないからです。

 そして、自分自身が神から承認された働き人であることは、コリントの信者がよく分かっていることであることを示しました。

 パウロは、ある人々のしていたことと対比して記しています。ある人々は、推薦状を持ってコリントへ来たのです。パウロは、推薦状を持ってきませんでした。しかし、推薦状が必要でしょうかと問いました。

3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

3:3 あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。

 そのような推薦状は、必要ないことを示しました。それは、コリントの教会の存在が、パウロの働きをとおしてのものであり、パウロたちの奉仕の結果なのです。神が働いたので、彼らが生み出されたのです。パウロたちは、神に承認された働き人であるのです。

3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。

3:5 何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。

 推薦状の有無がその人の神の働きのための資格を決定するのではなく、その資格は神がくださるものであるのです。それで、何かを自分のしたことと考える資格はありません。

 しかし、人はしばしば自分の働きを誇りと考えています。働きをしたことが自分の誉のように考えるのです。神への奉仕においてそれが現れるのです。そのような奉仕は、もはや肉の現れであり、御霊による働きではないのです。

 これは、偽使徒たちがしていたことでもあります。彼らは、パウロたちと自分たちを比較していました。人の間での誉を求めていたからです。

3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

 パウロたちが神から与えられている資格について、その目的を示しました。それは、十八節にその結論が示されているように、御霊により主と同じかたちにその姿を変えられることです。

 御言葉の奉仕において、この視点を忘れた働きは、価値がありません。自己満足に過ぎないのです。

 パウロたちは、新しい契約に仕える者としての資格を与えられました。新しい契約は、信仰により、御霊によってキリストと同じ者に変えられることです。それは、御霊に仕える者となる資格と言い換えられています。その意味は、御霊は生かす方です。その御霊の働きが実現するために仕える資格です。これは、御霊によって歩むところに命があることを言っています。十五節に、御霊のあるところには自由があるとあります。内住の罪の奴隷であるところから解放された自由があります。もはや、肉にはよらず、御霊によって歩むのです。そこに命の実を結ぶことができます。主と一つになって歩む命を経験し、御霊の実を結び、御国において永遠の報いとして栄光を受けるのです。それが御霊の働きです。そのために仕えるのです。

 なお、新しい契約は、イエス・キリストを信じた時に、永遠の滅びから救われることだけを指しているのではありません。それは、信仰による義の始まりで、信者の歩みの生涯を通して、御霊によって歩み、キリストと同じ者に変えられることであり、永遠の御国において、報いとしての資産を永遠の命として受け継ぐことであるのです。

 パウロは、この資格について文字と対しさせています。文字は、律法のことです。

3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、

3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

 律法は、死に仕える務めです。それは、次節で、罪とする務めとも記されています。律法によっては、罪の意識が生じるだけで、内住の罪の働きを引き起こすのです。それは、死をもたらします。すなわち、信者が神の前に肉によって歩み、罪を犯し、実を結ばないのです。それを死と言っています。

 ここで、律法を引き合いに出したのは、モーセの栄光と御霊に仕える栄光の違いを示すためです。その務めが命をもたらすものであり、非常に尊い務めであることを示すためです。

ローマ

7:5 私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。

7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、

7:10 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。

7:11 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。

7:12 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。

7:13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。

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3:9 (なぜならば)罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。

 律法は、罪をもたらし、罪とします。御霊は、義とします。罪とする務めに栄光があるならば、義とする務めは、栄光に満ち溢れます。

・「罪に定める務め」→断罪の務め。

・「義とする務め」→義の務め。

3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。

 かつて栄光を受けたものが、栄光のない者になっているのです。それは、さらに優れた栄光が現れたからです。それが、新しい契約であり、御霊による働きです。

3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。

 また、その栄光の違いは、消え去るものと永続するものの違いです。この点においても、御霊の働きによってもたらされるものは、はるかに栄光があります。

3:12 このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

 御霊に仕える働きは、非常に栄光に富んでいて価値があります。それで、極めて大きな勇気と確信をもって語るのです。

 御言葉を語る務めは、栄光に溢れ、尊い働きです。それで、勇気を持ってなすべきであり、語る言葉は、確信に満ちたものでなければなりません。「~と思います。」、「~かもしれません。」、「~ではないでしょうか。」など、曖昧なことを語るべきではないのです。そのように語るのは、確信がないからです。技術的に、言葉の末尾を修正すれば良いということではなく、聖書を研究し、間違いない神の言葉として取り次げるようにしておかなければなりません。

・「大胆に振る舞います」→「大胆」:勇気と確信。特に語ることにおいて。「振る舞う」:使用する。目的を持って意図的に行動することを意味し、多くの場合、管理責任や責任感を伴う。

3:13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。

 モーセのようなことはしないと言いました。モーセは、その栄光をイスラエルの子らから隠したからです。それは、消え去る栄光でした。

・「見せ」ない→じっと見る。

3:14 しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。

 イスラエルは、律法が朗読される時、それを文字通りに受け取り、文字通りに実行しようとしました。彼らは、本体がキリストにあることを理解しなかったのです。いわば、覆いが掛けられていたのです。しかし、彼らがキリストに向く時、完全な罪の赦しの立場にあって、新しく生まれた者として罪に対して死に、御霊によって歩むことを学ぶのです。主の御霊のあるところには、内住の罪から解放された自由があります。罪に従った奴隷の状態からの解放があるのです。そして、御霊の働きは、主と同じ姿に私たちを変えます。主と同じ栄光を現す者となるのです。

 なお、この自由を「主の御心を自由に行うことができること」とする解釈がありますが、自由の定義としては不十分です。定義文の中に定義対象の言葉が使われているからです。これは、罪の奴隷からの解放を意味しています。その結果、主の御心を行うことができる者となるのです。

3:15 確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。

3:16 しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。

 イスラエル子らは、モーセの書が朗読されるとき、覆いが掛けられているかのように、その言葉を理解できません。多くは、比喩で記されています。しかし、人が主に向きを変えるならば、その覆いは取り除けられます。比喩の大部分を占める幕屋や、捧げ物はキリストの栄光を表しています。そして、それは、人としてのキリストが御霊によって歩まれて現された栄光を表し、人の完全な模範ともなっています。

・「立ち返る」→向きを変える。改心する。

3:17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

 主は、御霊として働かれます。信仰により私たちの心のうちに住んでくださいます。御霊は、主の働きとして私たちのうちにあって働き、内住の罪の奴隷の状態から解放します。もはや肉にはよらず、御霊によって歩むことができるようにしてくださいます。

3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 私たちはみな、顔の覆いを取り除けられ、主の栄光を鏡のように映しつつ、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられます。これは、御霊である主の働きによります。これに仕えることが、パウロたちに与えられた務めです。非常に栄光に富んだものです。

 なお、栄光を反映するのは、顔だけではありません。顔の覆いを取り除かれることは、主に向くことを表しています。私たちのすべてが主のかたちに変えられるのです。